おばあちゃんの食器棚 第7話「ウールのブランケット」
小さな家に残された、ひとつの食器棚。
はるさんが残した器や布たちが、
手しごとの物語を
静かに語りはじめます。
稲垣早苗・文 大野八生・絵
第7話「ウールのブランケット」
いつも食器棚を見ていました。はるさんが肌寒さを覚えた日から、汗ばむ日差しを感じる日まで。毎年。
こじんまりとした食堂からキッチンに通じる壁際に、はるさんの大切な食器棚がありました。そして、その脇に置かれた一脚の木の椅子。それが私の定位置でした。そこから膝に掛けられたり、ふわりと羽織られたり。はるさんやご家族を心地よく温めるのが私の仕事だったんです。
私の中には、いくつかの種類の羊毛が織り込まれているんです。ニュージーランドにイギリス、そしてスウェーデン。それぞれの地で育てられた羊から刈り取られ、さまざまな工程を担う人の手によって糸になり、織る人の手元にたどり着くんです。私を織った人の名前は彩子さん。ワンピースがよく似合う凛とした人でした。
彩子さんが幼い頃、毎日は絵を描くことと共にありました。メモを取るにも、言葉よりも絵。心に浮かび上がるものは、かたちとなって紙に映し出されていきました。
「彩子ちゃんは、絵を描いていると機嫌がいいね。」そう言われ続けて、そのまま迷うことなく大学でも絵を専攻したのに、いつのまにかキャンバスに向かう姿がしょんぼりするようになっていきました。
描けば描くほど、自分であって自分ではなくなっていくような。どこか空虚な絵ばかりがこの世に生まれてくるようで、心は踊らず、晴れず。そんなことでつまずかないで描きこんでみようと絵筆を握っても、しょんぼりとした姿が、光に向かって伸びていくことはありませんでした。
ある日、通りがかった店のショーウィンドーに彩子さんは釘付けになりました。それは一枚のたっぷりとした布で、得も言われぬ風合いと色合いに心奪われたのです。扉をあけて店に入ってみると、そこでは小さな展覧会が行われていました。彩子さんがその布に見入っていると、
「どうぞ手に取ってみてくださいね。よかったら、羽織ってみても」
と、輝くような銀髪の女性が微笑んで言いました。
「これは私が織ったブランケットなんですよ」
とだけ言うと、あとは黙って彩子さんが見たいままにしてくれました。
その布は、遠く離れて見てみると、まるでどこかの景色を仰いでいるみたいでした。手元に寄せて触れてみれば、さまざまな糸の表情の面白いこと。思い切って羽織ってみると、包み込まれるような懐かしいぬくもり。
これをきっかけに、彩子さんは手織りの道を歩み始めました。出会った銀髪の女性の工房に通って、一から手織りを学ぶことになったのです。
*
「おばあちゃん、ブランケットを出したんだね。このブランケットを見ると、今年もおばあちゃんの冬支度が始まったってわかるよ」
独り暮らしのはるさんの家には、孫娘の明希(あき)ちゃんがよく訪ねてきました。大きなダイニングテーブルにノートを広げて宿題をしてみたり、ソファで本を読んでみたり。一番お気に入りだったのは、食器棚の中にある器や道具の手入れをしながら、それらにまつわる話を聞くことでした。
「この赤いブランケット、ところどころに違う色の糸が入っているでしょう」
はるさんはそう言って私を広げ、何本かあるグレーや茶色い糸を指さしました。
「赤はこの布を織った人が染めた色、そしてこの渋い色は染めていない色、羊の毛のままの色なんだよ。無垢な自然の色と、赤く染めた糸とを合わせて織りあがった布から、明希はどんなことを感じるかい?」
はるさんは、時々ちょっと返事に困るようなことを明希ちゃんに聞いていましたね。それは孫と話すというよりも、一目置いている友に話すような感じで。
「あったかそうで赤がきれいだなぁって最初は思っていたけど、使うたびにもっと深―いところから温かさが満ちてくるみたいな感じがする。赤い布って一言で言えないふかぶかとした感じ。」
こんな風に明希ちゃんが答えると、はるさんは何とも幸せそうに眉を寛(くつろ)がせるのでした。
「この布を織った人は、子どもの頃に絵を描くのが大好きで、織りをするときはその頃の気持ちに近づくんだって言っていたよ」
はるさんはその先を話そうとしましたが、その日はそこで、私や彩子さんの話はおしまいになりました。
手織りの制作は、彩子さんにとても合っていました。初めの頃は技術を習得していくことが楽しくて、無我夢中で機の前に。一通りのことが出来るようになると、何を織ろうかということに気持ちが向いていきました。
キャンバスを前にしたときのように、描きたいものって何だろう、表現したいものって何だろう。そう思ってデザインを構想し、布を織ってみたけれど、織りあがった布はどこかよそよそしくて、彩子さんの思うような布にはなりませんでした。
それでも織ることはやめませんでした。経糸の準備を整え、緯糸をシャトルに巻いて織り始める。その一連の動作が好きなことと、何より素材、糸の魅力に惹きこまれていったのです。
織りたいものは、自分の内側の想いだけではなく、手にした糸が訴えかけてくれる。それを汲み取る、感じ取ることがことのほか嬉しかったのです。自分の心と素材が響き合って生まれるもの。それが彩子さんにとっての手織りだったのかもしれません。
そして、織り続けていくうちに、美しい布を織る秘訣を掴んでいきました。それは、自分自身をよくしておくこと。健やかであること。美しいものを見て、感じて、吸収すること。
秘訣などといえば大袈裟だけれど、よい仕事をすることと、自分が幸せであることがつながっている。さまざまな経験を重ねるうちに、彩子さんはそう気づいていったのです。
織り手の幸せな時間は、糸と糸とが交わる空気の中にきっと織り込まれていく。なんて恵まれた仕事と巡り合えたのだろう。幸せでいればよいのだから。温もりを生む布づくりが、彩子さんの人生そのものを温めていたのでした。
「うれしいわ。織りあがったときよりきれいになってる。機からおろした時は初々しい眩しさがあるけれど、大切に使われ、こんなにいい布に育ててもらって。織るときの喜びは、織り手がもらうけれど、使うほどに美しい表情に育っていくのは、使い手へのご褒美みたいね。」
数年前、はるさんが久しぶり彩子さんに私を見せた時、今は銀髪となった彩子さんがこんな風に言っていました。
これから。
はるさんのもとを離れて、私はきっと明希ちゃんの家に行くような気がするんです。すこし草臥(くたび)れた姿になってきたけど、明希ちゃんはそんな私をきっと愛おしく思ってくれるんじゃないかしら。私は変わらず、明希ちゃんやその周りの人たちを温かく包んであげたいと思うんです。
(第8話につづく)
稲垣早苗(ヒナタノオト)
作り手と使い手の橋渡しをする、工藝ギャラリーの仕事を続けて36年が過ぎました。
人の手から生まれた愛おしいもの。「伝える、贈る、遺す」を心において物語を紡ぎます。
大野八生(イラストレーター)
植物を中心とした、繊細でいてあたたかな絵が人気。小社発行の『明日の友』表紙を長年描く。絵本や児童書の挿絵を描きながら、造園家としても活躍。
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第1話から4話までは、『婦人之友』2022年5月〜8月号に掲載されています。ぜひ、お手に取ってご覧ください。