おばあちゃんの食器棚 第10話「くるみの木の皮のお弁当箱」
小さな家に残された、ひとつの食器棚。
はるさんが残した器や布たちが、
手しごとの物語を
静かに語りはじめます。
稲垣早苗・文 大野八生・絵
第10話「くるみの木の皮のお弁当箱」
はるさんの家に来る前、私は私を編んだ人のもとにおりました。澄子さん。はるさんが子どもだった頃、近所に住んでいた少し年上のすてきなお姉さんでした。澄子さんは絵本をたくさん読んでいて、オルガンが上手で、誰かがねだれば折り紙で珍しいものを器用に作ってくれる、もの静かで優しいお姉さんでした。
はるさんが大人になる前の澄子さんを最後に見たのは、遠い学校に通うセーラー服の姿でした。うんと早く新聞を取りに玄関へ行ったり、深夜に星を見に物干し台に上がったりしたときに、重そうな皮鞄を下げて、うつむき加減に早歩きをする澄子さんを何度か見かけたのでした。
はるさんが社会人になり、まだ実家に暮らしていた頃、ぽとりと一枚の絵はがきが郵便箱に届きました。宛名の面を見てみると、なつかしい澄子さんの名前が書かれた展覧会の案内状でした。裏面には、森の中のピクニックのような設えで、木の皮で編まれたお弁当箱が木漏れ日を浴びて写っていました。素朴で愛らしい中にも凛とした表情のお弁当箱。ああ、やっぱりこれは澄子さんから届いたはがきなんだと、すとんと納得したのです。
はがきに導かれるように展覧会を訪ねると、入り口にはたっぷりと編まれた大きな籠に、早緑(さみどり)色の葉を茂らせた伸びやかな枝が生けられていました。扉を開けると、そこは森の中のようでした。豊かな森の草花が盛られた籠、野菜を入れた籠、布がふわっとのった籠。床に置かれたもの。壁に掛けられたもの。編まれた蔓や木の皮の色や太さは違っても、どれもが森の息吹を放っているようで、その香りに酔いしれていると、「はるちゃん」と澄子さんが声をかけてくれたのでした。
「今、森に住んでいるの」と、澄子さんは言いました。そして、「この籠は、ぜんぶ森にあったもので編んだのよ」とも。
子どもの頃、折り紙をぜんぶ使ってしまったとき、部屋にあったちらし紙を切って、何種類もの変わり鶴を折ってくれた澄子さんの魔法の手。はるさんの心の中で、幼い頃の澄子さんとの思い出がよみがえってきました。
「澄子さんは、子どものままにすてきな大人になったんだね」
はるさんが、思わずそう言葉にすると、澄子さんは少し困ったような笑みを返して、語りはじめました。
たくさんの勉強をしたけれど、楽しい勉強には出会えなかったこと。
たくさんの仕事や、たくさんの人に会ったつもりでいたけれど、やってみたいことや、なってみたい人を見つけることができなかったこと。
日々忙しく働いていた澄子さん。気がつけば、心をくつろがせ黙ってそばにいてくれるような友だちさえいないことに、心を細くさせていたこと。
「森が呼んでくれたのよ」澄子さんはそう言いました。
「森が呼ぶ?」不思議そうに応えると、澄子さんはゆっくりとうなずいて、あるまだ浅い夏の日のことを話してくれたのでした。
それは、ふらりと電車に乗ってみた日曜日のこと。山のふもとの小さな駅に澄子さんが降りてみると、駅の前には一本道がありました。その道をそろそろと歩いていくと、目の先には森がこんもりとあって、その森がなんだか光を宿しているみたいだったのです。その光に吸い寄せられるように歩いてみると、吸い寄せられていたのは澄子さんだけではありませんでした。
駅で降りたのはひとりだったのに、一本道を歩くうちに道ばたから人が現れては、その道を歩き出すのです。その人たちはとてもゆっくりと歩くので、早歩きがくせになっていた澄子さんも、いつのまにかみんなに合わせて、ゆるゆると森に向かって歩いていきました。
森の中に入り込むと、そこには見たこともないような茸や菜っ葉を売る人、桶に仕込んだ味噌を持ってきた人、夏蜜柑をごろごろと並べた人、そして何やら藁でこしらえたお飾りを売っている人が。そう、そこはまるで縁日のような市場だったのです。澄子さんは端から全部を見てまわりました。
どれもがこの森の近くに住む人が作った食べ物や、暮らしで使うものばかり。どの売り手の人も優しい表情で、それがなんなのかを教えてくれました。餡がたんと詰まった草団子、ちょっと酸っぱいお新香、双葉が愛らしい野菜の苗、黒く輝く鎌や鍬。どれもが作った人の前に置かれてあって、ぴかりと光の粒のように輝き、澄子さんには眩しいほどでした。
ひとりのおばあさんが、森の端っこで籠を並べていました。木の皮や蔓で編まれた籠やお弁当箱がおばあさんをぐるりと囲んで、まるであたたかく守っているようでした。澄子さんは、そっとひとつのお弁当箱を手に取りました。お弁当箱を両手で抱えているうちに、澄子さんの心になつかしいような切ないような、不思議な気持ちがこみあげてきたのです。
「どこから来たのかい?」そうおばあさんに声をかけられたとき、澄子さんは頬に伝った一筋の涙をぬぐうことができませんでした。けれどもおばあさんはそんな澄子さんに気づく風でもなく、「そのお弁当箱は、この森で採ったくるみの木の皮で編んだばかりのものなんだよ。私が何十年もずっと編み続けているかたちでね」と言いました。
見ればおばあさんのすぐ隣には、艶々と黒く輝くたっぷりとした手つきの籠があって、その中には、使い込んで艶めいたおばあさんのお弁当箱も納められていました。
その日、澄子さんはおばあさんの横に座って、日暮れまでその森にいたのだそうです。お弁当のおむすびまで分けてもらって。この森のほど近くに生まれ育ったこと。もの心がついたときから、使うものを何でも作ってきたこと。その中でも、籠編みが一番上手だったこと。蔓や木の皮を亡くなったおじいさんと採りにいっていた日々のこと。おばあさんの話は汲めども尽きることなく続き、澄子さんの心の泉をこんこんと満たしていきました。
それから数カ月ののち、澄子さんはこの森のほとりにあるおばあさんの家に住むことになりました。おばあさんと一緒に暮らしながら、春は山菜を摘み、夏は野菜を育て、秋には実りを整えて、冬には籠を編みました。数年をそのように繰り返し、澄子さんがおばあさんと同じように籠が編めるようになると、まるでそれを見届けて安心したかのように、おばあさんは息を引き取りました。
おばあさんを見送ったあとも、澄子さんはその家で暮らすことにしました。不便なことがいくつもあっても、おばあさんと暮らしたこの家は、すでに澄子さんにとっては繭玉の中のように心地よかったのです。そして、手をかければ何でも生み出すことができる森という宝物のような場所から離れてしまうことは、もう考えられなくなっていたのでした。
澄子さんと再会した日、はるさんはくるみの木の皮で編まれたお弁当箱を、ひとつ抱えて帰りました。それがそう、私なんです。日々使われ、食器棚で暮らしの道具の皆さんと一緒にいるうちに、私、はるさんがお店を開いたわけが、なんだかわかってきたんです。はるさん、澄子さんが出会った森の中の市場のような場所を作りたかったんだって。
誰かが大切に想いをこめて作ったものを、誰かが大切に想いを感じて使う。そうしたシンプルな佳きことの巡りの中に、はるさんなりの役目を見つけようとしたのじゃないかしら。
おばあさんのとの出会いから育まれた、澄子さんの豊かな想い。それに響いたはるさんの想い。暮らしの中で使うものを通して、想いが誰かに継がれていくこと。はるさんのお店も、食器棚も、そんな願いで満たされていたように思うんです。
(第11話につづく・2023年4月中旬頃に掲載予定)
稲垣早苗(ヒナタノオト)
作り手と使い手の橋渡しをする、工藝ギャラリーの仕事を続けて36年が過ぎました。
人の手から生まれた愛おしいもの。「伝える、贈る、遺す」を心において物語を紡ぎます。
大野八生(イラストレーター)
植物を中心とした、繊細でいてあたたかな絵が人気。小社発行の『明日の友』表紙を長年描く。絵本や児童書の挿絵を描きながら、造園家としても活躍。
★ご感想はこちらまで→ https://forms.gle/7jKMJVh1HvbsesiE9
第1話から4話までは、『婦人之友』2022年5月〜8月号に掲載されています。ぜひ、お手に取ってご覧ください。
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