しぜん・しごと・暮らしは地つづき 第5回「おばあちゃんから受け継ぐ”たつけ”の文化」
石徹白洋品店の しぜん・しごと・暮らしは地つづき [第5回]
おばあちゃんから受け継ぐ「たつけ」の文化
平野馨生里(石徹白洋品店・店主)
外の空気がだいぶ春らしくなってきました。石徹白は例年より早く雪解けが進み、桜の開花も早そうです。暖かくなってくると気持ちがワクワクしますね。
さて、今回は、直線裁断の服について書きたいと思います。
日本の民族衣装といえば、着物や浴衣です。私の祖母はふたりとも着物が好きで、日常的に着物で過ごす姿を見てきました。私自身、何かあると着物を着せてもらい、今でも子どもの入学式や七五三などではできるだけ着物を着ます。
わが子の七五三では、皆で着物を着る。
なんだか気持ちが晴れやかになり、背筋がピンとして心地よく感じます。やはり、日本人である私のDNAに着物を着ることが当然のように刻まれているのかな、なんて思っています。
とはいえ、夏場の畑仕事や藍染、子どもたちと遊ぶとき、また車の運転や家事をするときは、着物よりもズボンやシャツの方が動きやすいこともあり、普段から着物を着ることは難しいです。
それでは、昔の人はどうしていたんだろう? 今よりたくさん体を動かす仕事を着物でやってきたのだろうか? あるときそんな疑問が湧いてきました。
石徹白に伝わる
伝統的な作業着「たつけ」
どうやら先人たちも、「ズボン」的なものを使っていたようです。それを知ったのは石徹白に移住してからです。
石徹白でおじいさん、おばあさんたちに「聞き書き」をする中で、「たつけ」を教えてもらったのです。この土地に伝わる民踊があり、その舞台発表衣装として今でも使われているズボン的な服を「たつけ」と呼んでいる。それはお尻まわりがたっぷりしていて動きやすく、昔はあらゆる仕事に使ったものだと聞きました。
昔は、農作業、山仕事、どんな作業のときにも「たつけ」を穿(は)いた。
石徹白に商店ができ、ズボンを買える時代になった昭和30年頃から、たつけを作る人は減って、皆、現金を手に入れてズボンを買うようになったそうです。
それまでは誰もが「たつけ」を家庭内で作っていたので、現在の80代後半以上のおばあさんたちは、たつけの作り方を覚えていました。
私は「たつけ」の作り方を昭和8年生まれの石徹白小枝子(さえこ)さんと、昭和4年生まれの石徹白りさこさんに習いました。ふたりとも、「もう何十年も作っていない」と言いながら、何か参考になるものを見ることもなく「ここは○寸○分じゃ」「次はここを縫うんじゃ」と寸法も作り方もスラスラと教えてくれて、私はとても驚きました。
彼女らの手の中に、頭の中に、しっかりと作り方が染み込んでいたのです。
近所のおばあさんに作り方や布のことについて尋ねに行くと、なんでも教えてくださる。
その作りは、洋服とも着物とも違う、もっと複雑でパズルを組み立てるような方法でした。初めて作ったとき、頭の中は???でいっぱいに。困惑している私を見て、「やるつければ(作れ慣れたら)、簡単じゃ」と笑う、りさこさん。
一本作った後に、それと睨めっこしながら、構造と作る手順を理解しようと何本も作りました。そしてわかったのは、小枝子さんとりさこさんのたつけの寸法は違っていて、それぞれの体型、それぞれの家族の体型によって、さまざまにアレンジをして唯一の「たつけ」が作られていたということでした。
洋服のようにサイズごとの型紙が決まっているわけではなく、着る人に合わせて寸法を少しずつ変化させながら穿(は)きやすいものを完成させていくのです。
無駄なく布を使う、日本人の知恵
洋服のパターンを学んだ私にとって、全て直線裁断と直線縫いで、こんなに動きやすいズボンができるとは目から鱗でした。しかも、洋服作りで出てくるハギレはカーブが多くてどうしてもゴミが増えてしまいますが、たつけを作った後にハギレが出たとしても四角形なので、また何かに使うことができます。
裁断図はパズルのよう。これで一本のたつけができる。
「洋服作り=ゴミ作りのようだ」とジレンマを感じていた私は、とても健やかな気持ちで作ることができるたつけに、魅了されてしまいました。
なぜ、こんなに無駄がなく、少ない生地で動きやすい服を作っていたのか。それは、使う生地は、自ら麻を栽培し、糸を績み、機織りするところから作らなければならず、限られた布の中で工夫を重ねてきたからなのでしょう。今のように足りなくなったらまた買えばいい、というわけにはいかないのです。
今年はこれだけの布しかできない。その中で家族みんなの服をどうやって作るのか、考えに考えて算段してきたのです。
麻を栽培するところから手績み・手織りして布を作った。
まさに、”限られた自然の成長量”を恵みとして活かし、生かされてきた先人たちの知恵の結晶が、「たつけ」だと私は感じています。
私は、こんな素晴らしいものが、かつての日本にはあって、当たり前のように誰もが作っていたことを知りました。けれど、洋服が主流になり、こうした知恵が忘れられてしまっているのが残念でたまりませんでした。
だからもう一度、この“技術”と“知恵”と、そしてその背景にある“ものを大切にする心”、“自然と共に生きてきた人々の想い”を学び、伝えていくことができたら、と「たつけ」作りを始めました。
加えて、「たつけ」を製品化して販売するだけではなく、作り方を公開して、作ってみたい方に向けてワークショップを行っています。少しでも、私が教えてもらったことをお伝えできたら……と願って。
ワークショップでは、作り方はもちろん石徹白地域のこともお伝えする。
「たつけ」を次世代につなぐ
石徹白に住んでいると、自然と暮らしは切り離せません。雪がない時期にできることと、雪があるときにすることは違ってきます。便利な世の中になって、山深いこの土地に住んでいても郵便でなんでもすぐに届きますが、まわりの自然環境や気候は変えられません。
石徹白は、冬になると雪の壁に閉ざされる。
制約があるからこそ、あれこれと頭を使って、しっかりと体を使って、先人たちは生きてきたのではないかと実感しています。そんな賢い先人たちに憧れ続けている私は、便利であることを求めるよりも、“不便だから工夫を凝らすこと”に豊かさを感じています。
自分の手ではまだ何もできない未熟者ですが、いつかは石徹白でたくましく生き抜いてきた人たちのようになりたい……と、日々学びを深めています。
また、ここに住み、先人の知恵を学ぶ中で、脈々と続いてきたこの土地の文化や歴史と、今を生きている自分自身の存在が切り離せないということも実感しています。私は、あらゆる命の繋がりの中、先人のさまざまな知恵の蓄積の上で生かされている。それをきちんと受け取って、次の世代にどうバトンを渡していくのか。
昭和2年生まれの、りさこさんと。
何を選び、何を創造し、何を未来に残していくのかを考え実現することは、今の私たちにしかできない、ということもよく分かってきました。
石徹白に移住して13年目を迎えます。これまでは、ここで培われてきた温かくて大きな懐に入れてもらい、さまざまな経験をさせてもらう新人でした。けれども悲しいことに、頼れる80代以上の方たちがこの世を去りつつあり、いつまでも頼ってばかりではいられないような状況になってきました。
だから、これからはこの土地の将来を見据えて、文化や歴史を伝えていく「点」となっていきたい。そう思いを新たにしています。
「たつけ」をつなげることもそのひとつの役割。ひとりでも多くの方に、まずは穿き心地の良さを、そして作り方を知っていただけたら嬉しいです。
[編集部から]
たつけの穿き心地は編集部でも評判。地域の歴史や知恵、そして平野さんや石徹白洋品店の思いなどの背景をうかがうと、一層愛着もわきます。
無駄を出さずに必要なものを必要な分だけ作る、石徹白の先人たちが実践してきた考え方を、私たちも次世代につないでいきたいと思います。
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