東日本大震災から5年 福島の読者からお便りが届いています。(2016/3/22更新)
東日本大震災の3月11日から5年。あの悲痛な惨事を、そして罹災した多くの方々を想い、心に忘れることは、ありませんでした。
岩手、宮城、福島県での復旧復興のお手伝いは、まだまだ僅かですが、伺っている私たちには、多くの方々との出会いがあり、教えられたことがたくさんあります。浜の生活を、仕事を一緒にさせていただいて知ることのできたこと、そして地元の方々ならではの、心の暖かい、強い、そして深い繋がりを、肌で感じてきました。
婦人之友社は、福島県の「季節の花鉢」頒布会に申し込んでいますので、いま、社のロビーには、いわき市の吉田春男さん生産のエニシダの鉢が、置かれています。黄色の花がとてもきれいです。先月は下山田さんのラナンキュラス、来月には田中利明さん生産のわたぼうしが届く予定です。
3県の被災地には、婦人之友社、自由学園、「婦人之友」の読者がつくる全国友の会177の各地友の会が、それぞれの特色を生かした交流と支援をつづけています。かつての関東大震災、昭和初期の東北を襲った飢饉の支援等々を、婦人之友社の創設者羽仁もと子・吉一のもとで、行ってきた精神を継いでいますが、今はどのような支援が求められているのか、共に生きている私たち同士の絆の交流に発展しています。これからも、途切れることなく続けてゆきます。3誌の読者が寄せてくださる支援金も活用させていただいています。ありがとうございます。
婦人之友社
孫たちと、やっとここまで
もう5年なんだ。いや、まだ5年なんだ。3月11日午後2時46分、夫と2人手を合わせ祈った。と、あの日のことが甦った。
「おばあちゃーん。」と飛びついてきた孫をしっかり抱き、老後のためにと取り付けたばかりの手摺りにつかまった。少しして幼稚園バスで別の孫が真っ青な顔で帰ってきた(この孫は卒園式もできないまま、小学校入学となった)。ああ、無事で良かった。しかし、生活は一変した。近くに住む長女、二女家族は、オール電化生活だったため、我が家へ集合。義妹も入れての大家族生活となった。火の気のないこたつに湯たんぽとお湯を入れたペットボトル数本と皆の足を入れ寒さを凌いだ。孫が「人間っていっぱい集まるとあったかいんだね。」と言ったのが思い出された。
次の日、ようやく電気が通じてテレビをつけた。とたん、目を疑う。あの恐ろしい津波の映像をはじめて見ることに。信じられない、何ということか…。そして、世にも恐ろしい原発事故のニュース。しかも、ここ福島市も24.24マイクロシーベルトとのこと。それがどれくらい大変なことなのかもわからないまま発表を聞き、何も知らずに孫たちを外に出していたことへの後悔が頭をよぎった。
私は、津波や地震の被害の方々のことより、今の自分の家族のことしか考えられなくなっていた。一番心配だったのは、妊娠4か月を迎えた二女のこと。空気も食べ物も危ない、息を殺すような生活になるかもしれない、と。近所の人からは「他県で産んできた方がいいよ。将来、結婚に影響するから。」と言われた。孫たち(6歳、4歳)の遊びには室内で、跳び箱、平均台、ペットボトルのボーリング、ハンカチ落とし等いろいろ工夫した。
庭先の春野菜だけがいつもより生き生きと大きく育っていたのに、食べられない悔しさ。
「友達は遠くへ避難したんだって。」などと聞こえる中、県内各地へ支援物資をお届けする働きに加わっていた私は必死だった。大変な思いをされている方がいるのに、自分が病んでいる場合ではない、と心を奮い立たせたのだった。
翌年夏、「自由学園へいらして、心も体も癒して下さい。」というお誘いを東京から頂き、娘2人と孫3人(妊娠中だった二女も無事出産し、その子は1歳になっていた)が参加。窮屈な生活が一気に吹っ飛んでどんなに癒されたことか。孫たちから「また行きたいね。」の言葉を聞いた時は、感謝の気持ちで一杯になった。翌々年は、北海道函館にも。孫たち、娘たちはこのご恩を一生忘れないだろう。いつかどこかで、形は違ってもこの心をお返しする日がきっとあるはずだ。
あの時、娘のお腹にいた児は、今、4歳となり、昨年除染のすんだ庭で、毎日砂遊びに夢中だ。他の2人の孫娘も、日々元気に勉強に習い事に励んでいる。
でも…。心のどこかで、「今は元気だけれど、将来は…」と考えてしまう。孫たちは結果のわからない重荷を背負って生きてゆかなければならないわけだから、私たち大人の責任なのに本当にごめんね、こう言う他ない。
それだからこそ、福島の原発事故の犠牲を決して無駄にしてほしくない。良き未来のための教訓として、糧として活かしてほしいのだ。にもかかわらず、原発が再稼働されていく。やはり、思いは届かないのだと、辛く、悲しく、悔しく、心が痛むばかりだ。
しかし、日本人は素晴らしい知恵を持つ民族だから、多くの叡智をもってすれば、必ずや克服できるはずだと思う。天から授けられた孫を含めかわいい子どもたち、原発のことをしっかり学んで、しっかり対処して生きていってもらいたい。何事にも負けない強い心、強い精神を持つ人に育ってもらうため、私は私なりに教え諭し、見守り励まし続けよう。亡くなった方の分までも。自分がたくましく生きなければと、思っている。
2016年3月18日 福島在住 佐藤恵子 75歳
支援をつづけ、5年を迎えた今 福島から
未曾有の災害から5年が過ぎました。あの時、原発のある浜通りからぞくぞくと、何も持たずに逃げて来た人たちで、市内の体育館はいっぱいになりました。こうしてはいられないと、「婦人之友」の読者でつくる全国友の会は、創立者を同じくする婦人之友社と自由学園と一緒に立ち上がり、支援活動を始めました。今思っても、どこからあのような力が出たのだろうと不思議に思うくらい、送られてきた物資を届ける作業を、暑くなる7月まで続けました。仮設住宅が出来ると、新地町と桑折駅前仮設に支援先を絞り、生活改善の講習へと内容を変えながら、続けました。仮設の方達とも心が通じ合いました。子ども達には、毎年東京郊外にサマースクールを開き、子ども達の笑顔を久しぶりに見ることができ、喜び合いました。
支援の記録は克明に記録しましたので、後世に伝えられると思います。5年の間には、家を建てた方、家を買った方、子どもと一緒に住み始めた方、公営住宅に移られた方々が多くなり、仮設住宅の今は寂しさも出てきて、改善を必要とする問題も起きています。原発のため、家に戻れない方々とも接してきました。未だに戻れない方々が10万人もおられる事が事実です。私は20年前、東北電力から委嘱されて、原子力発電の安心、安全、クリーンさを説明する仕事に携わっていました。その安全神話はもろくも崩れ去りました。原子力発電はやめるべきです。私たち一人ひとりの生活を見直していけば、これ以上電気を起こさなくとも暮らせるはずと思います。毎月の婦人之友誌上の「シンプルライフ」を私たちは実行しなければなりません。そして、よい社会となるように「婦人之友」の愛読者をふやさなければならないと思います。
2016年3月18日 福島在住 片平美和子 60代
十三浜は新わかめの収穫シーズン
『婦人之友』では、誌上を通してわかめと昆布の予約を募り、宮城県石巻市北上町の十三浜から購入をつづけています。
3月8日、十三浜を訪ねました。早春の海はおだやかで、陽をうけてきらきらと美しく、5年前、高さ16メートルの津波という脅威となったことが、信じられないようでした。
編集部の一人が震災直後にお訪ねしたことをきっかけに、婦人之友ではその後、十三浜に暮らし漁業を営む方々と、交友を深めてきました。それは、わかめ養殖を再開した浜の家庭を、わかめを購入し支えるということだけでなく、私たちが当たり前のようにいただいている海産物の背景を知り、その地に生きる人たちを知る時となりました。
3月号掲載の「それでも海が好き。家族とここでこれからも」はじめ、誌上での十三浜わかめクラブ通信には、漁師さんやそのご家族に、四季折々に漁や浜の様子を伝えていただきました。お読みくださった皆さまはきっと、わかめを料理しながら、あの佐藤さんや遠藤さんたちの姿が思いうかぶのではないでしょうか。
今回、浜の皆さんに改めてお会いし、おいしいわかめや昆布のお礼を伝え、これからも長く支え合っていくことができたら、と話しました。漁業が再開されても、まだ仮設住宅で暮らす方が大勢います。笑顔で迎えてくださりながらも、厳しさの中で一歩一歩、歩みを進めておられることを心に刻みました。
今、浜はわかめの刈り取りシーズン、漁師さんたちは大忙しです。早朝6時ごろ港を出た漁船が、山のようなわかめを積んでもどると、どんどん湯に通し、芯を抜き出荷。どこも家族総出で働いています。私も、めかぶ(根元の部分)の耳削ぎ(ヒダを芯からはずす)の作業に加わりました。浜の朝は冷え込み、手袋の上にゴム手袋を重ねても、手の先がじんじんと痛むほど。女性たちは、大量のめかぶの山を囲んで立て膝になり、専用のカッターで、さっささっさと耳を切りとり、山を崩していきます。そうして港のあちこちで、各家の船から揚がったわかめやめかぶが、どんどん処理されていきます。
大山を崩し終えると、わかめクラブの世話役をしてくださっている佐藤のりこさんから、「はい」と採れたてのめかぶを手渡されました。茎を持ってわかめの横で湯がき、ヒダの部分をかじります。潮風の中、歯ごたえのあるめかぶは、とてもおいしい海の味でした。
毎朝毎朝海へ出て、わかめを採る漁師さんと、その家族の働きによって、私たちに届けられる十三浜のわかめ。今年もより多くの家庭の食卓でおいしく料理されることを浜の皆さんもとても楽しみにしています。
2016年3月14日 羽仁曜子